生活

観たものとか思ったことの整理整頓お片付け

映画版CATSの気に食わなかったところ

四季の五反田版とロンドン円盤が好きな人間がお送りします。好きだったとこと合わなかったところを挙げてるだけなのでネタバレしかない上に厄介オタクが「想像してたのと違う……」って喚いてるだけなのでそういうの苦手な人は読まないでね。ざっくりと感想をいうと、わたしが今までの媒体から想像して好きになった部分と、トム・フーパーのキャッツ観が尽くすれ違いを起こしている。そんな感じだった。


とはいえなんと言ってもやはりアンドルー・ロイド=ウェバーの楽曲なんだね。正直オーバーチュアを聴いた時点で若干泣いた。多少編曲に「ん?」となる箇所がなかったわけではないけど、まあ〜映画だしね。という気持ちで流してしまえる程度でした。一箇所を除いては……。さてどこでしょう。正解はエンドロールの一番ラストでした〜。ちょっと怒りすら湧くほどにダメでしょとなってしまった。memoryのラストに流れるオーバーチュアのアレンジ、あれが大事なんじゃん……。あれが大事なんじゃん…………。あれがよ…………。大したことないって言っちゃえばそこまでなんだけどさ、個人的に作品を象徴するメロディを敢えて外してしまうのがまじめに解せなかったです。それからグロールタイガーのナンバーちゃんと聴きたかったね……。ほんとはランパスも聴きたかった。でもグロールタイガーもランパスも、CGでやろうとすると犬とか出さなきゃいけなくて大変なんだろうな。いやまじめな話Gの行進やるくらいならこの二曲のうち片方でも良いのでやって欲しかったですけどね……。この映画化のために作られた(たぶん)アンドルーとテイラー作曲のヴィクトリアナンバーは思ったよりも好きでした。あとはオールドデュトロノミーナンバーでのマンカストラップとタガーのユニゾンパートがすごく好きなんだけど、なくなってたのもこの映画においてはよかったなという感じ。なぜならタガーがマンカストラップに統合されてしまっていたので、ユニゾンをする意味がないため。

 


そう、個々のナンバーの流れる場面はすごく好きだったんだよ。ジェニエニドッツはちょっと、まあ、薄目で見ちゃったけど。本筋とナンバーの切り替わり方とかは好きでした。ただな〜、各猫の個性をもうちょっと出してくれてもよかったと思う。映画化に寄せてキャラクターを統合したり、変化させたりって避けて通れない道なのかもしれないけども。群像劇としてのキャッツが好きなので、思いっきりヴィクトリアを主人公に立て、ある一匹にカメラのフォーカスを当ててという描き方がちょっと自分には合わなかった。いやそう描くこと自体は分かるんだけどさ、キャッツだし。舞台みたいに全体像を観せる、観客が各々好きなところにフォーカスできるというような作りじゃないしね。娯楽映画だから。ただ、なんだろね。既存のものから勝手に感じてた、ジェリクルキャッツの独立した感じというか、湿っぽくない感じが好きなんだよなあ。「みすぼらしく痩せていても鋭い鼻厳しい目が何もかもを見抜いている」、そういうジェリクルの孤高さみたいなところをもうちっと感じたかった。あと猫っぽさが薄くて人間に寄ってるんだよね。見た目の問題もあるかもしれないけど。宗教コミュニティ感がめちゃくちゃ際立ってる。特にグリザベラはじめっとしすぎててちょっと違和感。他人や自分を信頼しすぎてる感じがどうも重たすぎる気がした。印象に過ぎないけれど舞台版のグリザベラって、すっごい乾いてるんだよね。乾燥し過ぎてひび割れた草一本生えない大地みたいなイメージ。「諦め」の体現というか。そこにシラバブ(と呼ぶことにするが)のmemoryがしみとおって、集団の中の個として息を吹き返す、そういうような感じ。希望を持ってしまった自分さえ嘲るようなところがなくなってしまっている気がした。あわせてヴィクトリアについても言及したいんだけど、あのー、シラバブって結構な仔ニャンコだと思うんですね、マンクの接し方を見るに。それもあって、彼女のグリザベラに対する感情って、わたしはずっと『純粋な好奇心』だと思ってるんだけど。あのうたの美しさと、コミュニティから追放された見知らぬ相手への好奇心。なので今回のグリザベラと同じく、ヴィクトリアもまた重すぎるんだよな。分かるよ、そういう構成にしたかったのは分かるんだけど、シラバブの『個』が限りなく透明だっただけにヴィクトリアの『個』が強すぎて、グリザベラの救済がこう、なんだろな〜、霞むとは全く違うんだけども、なんだろね〜。グリザベラの悲しみに対応するというか、並び立つものが確固として置かれてしまったゆえに、乾きのレベルが小さく見えてしまうって感じ……。いやなんつーかな、舞台版でも確かにシラバブとグリザベラは並びたってるとは思うんだけど、ていうかだからこそグリザベラのしんどみが際立って見えるんだと思うんだけど。生まれてきてまだ何も悲しいこと辛いことを知らないシラバブと、恐らく生きることの喜び苦しみ悲しみをたくさん経験してきたグリザベラの比較だから一層際立つっていうか。だから悲しみを知って悩んでいるヴィクトリアが立ってしまうと、同質の壁ができてしまってパンチの弱さが気になってしまう。それから、ヴィクトリアの自分とは何者なのか、という問いこそグリザベラのものだったんじゃないかなと個人的には思っていたので、それ取っちゃうの!?となったのだった。

あとさーマキャヴィティはどうしてあんなことになっちゃったの?なんでボンバルリーナがマキャの女みたいになってんの……?ジンジャーキャットはどこへ行ったの……。別に犬を引き裂くマキャを見たかったわけじゃないけど、彼に目的を与えてしまったためにあまりにも小悪党になってしまっていてガッカリした。せっかくのイドリス・エルバが……。マキャヴィティはさあ、犯罪王なわけ、罪を犯すこと自体が目的みたいなキャラクタだと思ってたわけ。お前ジェリクルの選定に興味あったんけ……。そういう全く得体のしれない気味の悪さみたいなものが、よりによって手下と自分でナンバー歌っちゃうことによって、街のチンピラ程度まで引き下げられてしまって、思い出したら泣けてきた。処理のせいで人間の全裸みたいに見えちゃうし……。ジェリクルたるボンバルリーナとディミータがマキャヴィティを歌うからこそ恐ろしさとか底知れなさが増す、そういう側面ありません?あります。いやテイラーは可愛かったよ。歌もダンスも素敵だし。でもどうしてもマキャヴィティの手下じゃなきゃダメだったのかね……。しかも「来い!」つって引っ張られたあともう出てこないし。挙げ句の果てに気球。勘弁してくれよ……。グロールタイガーも相当酷かったけどね。あれじゃただのチンピラじゃん。あのグロールタイガー、ハリネズミ踏み潰さないんじゃないかな……知らんけど……。一曲貰ってる役なのになあ。あのナンバーすげーかっこいいのになあ……。

まあね、映画化するにあたってビジュアルの違い演技の違いは言わずもがな存在するし、グリザベラよりはヴィクトリアを主人公に置いた方が物語として美しいと判断するのも理解はできる。小悪党に女を付けたくなるのもまあ、お約束って感じだし、仕方ないんだろうけど。仕方ないんだろうけど、というワードで自分を納得させる作業療法の一環。あとジェニエニドッツもタガーもバストファさんもミストも、もうちょっとなんとかならんかったか。あまりにもじゃない?扱いが薄いんだよな。去勢ジョークを飛ばすジェニエニドッツ、解釈違いです。よくこのご時世にそのセリフ言わせたな。そんでタガーはただのセクシー猫だし、バストファさんなんか政治の「せ」の字もないし。食べログ猫に改名しろ。ミストに至っては魔術どころか手品かよという。もっと飄々としてくれ〜。お前の成長物語こっちは望んでねえんだ〜……。まあ仕方ないんだろうけどね。結局は好みだしね。と言いつつ、舞台版とは全く別物として映画版だけでナンバーシーン個々を観たら結構好きだったと思う。念頭に舞台版が有るからこうなっているんだ……。そんなこんなで映画版のお気に入りナンバーはマンゴランペルとガス、スキンブルです。いやヴィクトリア置いてっちゃうのちょっと……と思ったし、ジェリーロラムの歌も聴きたかったけど。ガスは俳優力って感じだったね。素直に泣いてしまった。スキンブルは汽車みんなで回すのがなくなったのは残念だけど、タップがめちゃくちゃかっこよかったし生き生きとしてア〜〜〜スキンブルシャンクス・ザ・レイルウェイキャットだ〜〜〜って感じでとても楽しかった。関係ないけどイドリス・エルバのせいでターンしながら空に吸い込まれていくスキンブル、クソ面白かったな。思いっきり噴き出してしまい咳でごまかしたため隣の人には悪いことしたなって思ってる。

 


見た目の話、避けて通れないと思うんでしとくんですけど、あのー造形として普通に許容できるキャラもいませんでした?わたしミストとマンゴランペルあたりはわりと違和感なく見れたんですが、あれ人間の輪郭があまり目立たなくなってるからなんだろうなと思った。あと眉毛と鼻・口かなあ。やっぱり舞台版のビジュアルに寄せなかったのは解せないよな。あんなに可愛いのに。今回のって、顔面だけまんま人間残しちゃってるからキツいんだよね。一番好きな猫、マンカストラップなんですけど、ダメだったな、どう見ても綺麗なドラえもんにしか見えない。みーんな綺麗なドラえもん。あの顔の横がフサフサしててお口がキュッとしてるのめちゃくちゃ可愛いのになあ。そりゃタントミールみたいな短毛種の猫も登場してるし、実際猫の体毛って長くはないけど、そこはリアルじゃなくていいじゃん。フィクションの力を強化する方向で作って欲しかった。それから尻尾がマジでうるせえ。あそこまでやって尻尾がただの紐だったらそれはそれで浮くのは分かるんだけどさ。あとネズミはまあいいとしてGはまじでああする必要なかったよね?製作陣の悪意を感じる。しかも食うし。食うな。全員きちんとしつけるんじゃなかったんすか?お前がまずしつけられろ……。背景とかは綺麗で良かったと思います。ただねスケール感がゴチャゴチャで遠近感覚おかしくなる。もうちょい統一感が欲しかったな。

 


グダグダ気に入らないところを書き綴ったわけだけれど、曲歌ダンスはかなり好きだった。やっぱりめちゃくちゃカッコいい。ジェリクルソングとかすげー泣いちゃったし。もっと俳優の身体や演技に注目して観れば良かったなと悔やんでる。まーでもね……いやーほんと……昔どハマりしてたジャンルがアニメ化した時解釈違いの嵐で毎週死んでたことを久々に思いだしました。鑑賞中「これは別アースのキャッツだから……」と唱えながら観ていたけど、逆にビジュアルがああだからそこまで発狂せずに観れたのかなという気もする。だってどう見てもオリジナルと程遠いし。自分にとっては、普通に観られるし好きなタイプだけど、同時に鑑賞後ジワジワと「あそこの作り……やっぱ気に入らねえな……」となってくるタイプの映画だった。原作厨って悲惨ですね。そしてこの映画に関して何より気に食わねえのは、Twitterのバズ狙いクソ寒酷評大喜利ですね。ポルノだなんだってレビューが流れてきたけど、蓋開けてみたらほぼほぼ猫としての演技を茶化してるだけじゃんって感じだったし。それに続くバズ狙いツイート。いやね、映画の作り的に舞台慣れ・もっと言えば舞台版CATS慣れしてる人じゃないと確かにキツいかもなっていうのはあるけどね。あと見た目に慣れられたかどうかもデカいよな。無理な人はマジで無理だと思う。でも気に食わないものは気に食わねえんだな。総括するなら自分向きの映画化じゃなかったね、と言ったところでしょうか。書きたいことを書いたらスッキリしたので、もしかしたらもう一回くらい観に行くかも知れません。いや嘘……アマプラで100円くらいでロンドン版レンタルできるらしいのでそれ見ます。あと四季のチケットも取る。

 

 

追記

やっぱりなんかもう少しモノ言いたくなってしまった。キャッツって、どんなミュージカルかって言われたら結構な割合で「ストーリーがなくて、歌とダンスを楽しむミュージカルだよ」って言う人多いと思うんだ。てかわたしも多分そう言うんだけど。ただね、一本の明確なストーリーはなくても物語には満ち溢れた作品だと思っているんです。それを映画作品にするってなったら、やっぱ大変なんだろうなあ……。わたしの指す『物語』って、結局猫一匹一匹の仕草だったり表情だったり、もちろん歌やダンスはそうなんだけど、センターでメインを張ってる猫だけじゃなくて舞台上の全員が生きてるっていうところなんです。それがジェリクルキャッツたちの物語なんだと思ってるんですね。そういう意味での群像劇っていうか。だからこの映画化における画の撮り方とか、見た目に嫌悪感を抱いてしまうようなデザインだとか、そういうところが『おれのかんがえたさいきょうのキャッツ』との乖離を生んでしまって、しんどいんだよな……。撮り方見せ方が、個々への注視を生むようなものではないように思えるから。それが製作者の見せたかったところだよって言われたらまあ、それまでっつーか、アッハイすみません、と言うしかないんだけど。やっぱりな、生きてるように見せて欲しかったなって思っちゃうんだよな〜。

9年くらい一人相撲を取っていたって話

電車の中で音楽を聴いていて、

わたしのiPhoneの中には三日間くらいまるまる流してても終わらない程度には曲が入っているのだけど、それでいつもシャッフルするからまだ一回もこのiPhoneで聴いたことのない曲なんかもあるんだけど。

仕事終わって、なんか頭がいたいなって思いながらぼーっと音楽を聴いていて、そしたら相対性理論渋谷慶一郎のBlueが流れてきて、Blueはわたしが学生で演劇をやっていた頃、仲間内で上演した作品の中で流れていた曲で、わたしはずっとその仲間内の一人の男が大好きだったのだけど、その男が好きな曲だった。Blue。

何年かぶりにこの曲を聴きながら、疲れていたからかもしれないけど、不意に「あ〜やべえな、結局ずっと好きなんだろうな〜」ということに気づいて、今までそういう気持ちになった時って思い切り落ち込んでいたんだけれども、今日はなぜかものすごく精神が落ち着いて、電車の中で少し泣いた。落ち着いてるんですよ、泣いてるけど。

ずっと好きな人だったんだよなあ。大学に入って、二年生になってから一緒に演劇をやるようになって、それから去年の今頃までずっと好きだった。とても好きだった。

 

でも今にして思うなら、それは好きという感情とはまたちょっと違うのかもしれないね。っていうのは、わたしは今まで生きてきて、努力したりしなかったりまあ、いろいろあるけれども、やってみるとなんとなくこなせる。みたいなことばかりだったから。どうやっても自分の思う通りに、自分のことを好きになってくれない相手にものすごく執着してしまったのだろうなあと思う。余談だけど、それと同じ理由で演劇をするのが好きだったんだろうな。

相手には何度も好きだって言ったけど、とうとう付き合ってくれないまま友人関係がずっと続いて、でも去年の今頃に割と些細なことが理由でわたしがもう相手に興味がなくなってしまって、それから一年ほとんど連絡を取っていない。

この8年くらい、毎日とは言わないけれど、久しぶりに顔を合わせた友人がなぜかわたしに対して「あいつ元気?」と聞いてくるくらいには、よく一緒にいたものだった。長く一緒に居たからその分嫌なところ、いや、わたしの思い通りになってくれないところがたくさん目立つようになってしまって、『好きな気持ちで出来てる器』の許容量を『もう嫌だ』っていう気持ちが上回ってしまったのであった。そんな感じで連絡を取るのをやめた。

前にも似たようなことがあって、その時はなんでそうなったのだか全く覚えてないけど、そう決めた日の夜、帰り道で自転車を漕ぎながら、「ああもう我慢しなくていいんだな」と思ってビシャビシャに泣いたのを覚えている。そうなのだ。相手はわたしのことを好きで一緒にいるわけではないから(諸々の事情によりわたしは大変都合のいい女をやっていたのだった)、嫌なことも我慢して、言いたいことも言わないで、相手の機嫌を伺っていないとスッパリ切られてしまうと思っていたのだ。

いや〜これも今思えば相手にかなり失礼な話だと思っているんだがね。でも当時の自分にとってそれってものすごく大きい問題だったんだなあ。そこまで酷い人でもなかったんだけどな。いやいいか悪いかつったら悪い人だとは思うけど。他人を信用しないくせに自分を好きになってくれっつーのも相当ワガママだよね、と思うんだけれども、当時はそれが自分の中の揺るぎない一本柱としての行動指針だった。というか、嫌なこと我慢してでも一緒にいたかった。だって本当にものすごく好きだったから。なんだろうな、ちょっとな〜と思った時の『嫌だな度』を、隣どうしでただご飯食べてるだけのときの『めっちゃ好き度』が軽く凌駕してる感じ。気持ち悪いな。こうして書いてみると相手に対して申し訳ない気持ちがムクムクと湧いてくるので、自らを省みるって大切なことですね。

で、去年改めて連絡を絶ったときはどうだったのかというと、「も〜〜〜ういい加減付き合ってらんねえわ!!人を舐めるのも大概にせえよ!!!」というような気持ちだった(からこそ連絡を絶った)んだけど。いやそこまでいうほど酷いことをされたの?って聞かれたらちょっと口ごもるというか、どちらかというと一度醒めた目が再び閉じてしまいかけてた、みたいなとこというか、結局我慢しなくていいって気づいた後もなんだかんだで我慢してたのかもね〜積もり積もったものがね〜みたいなとこなんだけどね。あと自分の奉公(これは自分に対する皮肉です)に対する見返りというか、帰ってくるものがなさすぎるっつーのが、損得で人間関係考えちゃったあたりがこうなった原因だよねとも思っている。

相手にもいろいろあって、そのいろいろな状況に応じて結構尽くしてたと思うんだわたし。自分で言うのもなんだけど。で、わたしは並みの凡庸な人間なので、ここまでやってんだから何か返しておくれよという気持ちを抑えることができなかったのだな。て言いながら、思い出せるのは楽しかったことばかりなので、あげてばっかじゃねーか!と思っていたけどそんなことは全然なくて、だからもうこれ単純にわたしがワガママだってだけの話なんですけど。つうか、ここまで自分を結構可哀想なように書いてるけど、相手も同じくらい嫌なことあったんだろうなとは思う。わかっちゃいるんだけどね。わかっちゃいるけど、わたしの主体はわたしなのでどうも自分にいいように書いてしまうな。

んで、そもそもじゃあなにをしたらわたしの満足いく結果になるのか?つったら、極論結婚というか、一生一緒にいてくれやってことになるわけで、でもそれはまた違うっつーか、尽くしてくれたら好きでもない相手と結婚しなきゃいけんのか?みたいになるじゃん、地獄。そんなことは間違っていると思うので、ていうかそんなお慰みで一緒にいてもらうのは情けなさすぎてわたしが耐えられないので、まあいつかこうなるしかなかったのかもしれないよね。わかんないけど。

 

とまあ、そういう悲喜こもごもがこの9年くらいの間にありまして、今日Blueを聴いていて、じゃあ発狂しそうなところをどうして逆に落ち着いたんだろう、という話をやっとしようと思います。長かった。

なんか、その、「ずっと我慢してた」っていう非常に一方的かつ身勝手な被害者意識が腹の底にずっとあったと思われるじゃないですか。自分のことながらあまりちゃんとわかっていない感も正直あるんだけどね。で、この一年なんとなく「もう帰ってくるもんじゃあないんだから、諦めて、とっとと忘れて、早く夏イベ走るべきじゃない?本も結構積んであるけど?転職はいつするわけ?」みたいなことをずっと思っていたのです。実際FGOの夏イベは走りきったし、本はそんなにたくさん読めなかったけど転職もした。結婚願望があるわけでもないのに、街コン行ってみたり、そこで会った人とみんなで遊んだりもした。

「もういい歳だし、世の中にはあの男よりも楽しくてウキウキするようなことがたくさんあるんだから、辛かったことは忘れちゃったほうがいいよ!」という、生きていく上で結構大切な考え方だと思ってるんだけど、『勝手に傷ついた自分を慰めるための機構』みたいな。そういう心の働きが顕著に出ていたなと思う一年だった。

その間に一回も連絡を取らなかったかというとそういうわけでもなく、向こうからちょこっと用事があってラインが来たり、逆に夏一人で伊豆大島へ遊びに行った時浮かれてわたしから写真を送ったりもした。いやでもほんとそのくらい。あと最近はどうしても返して欲しいDVDを返してくれって連絡してるんだけど、全然返事をよこさなくなって結構イライラしている。返却をダシに会おうとしてるんじゃないかと思われてるかもしれないのがシャクである。そしてこのシャクな気持ちもおそらくはわたしの一人相撲だ。そうんなどうでもいいことを気にするような男でもなかったように思う。

まあそれはいいんだ。それはなんとかするとして。結局のところ、「どうでもいい」「大したことない」と思うこと自体がすでに矛盾をはらんでいるというか。逆説的であることに、Blueを聴きながら気づいたのだった。という話がしたかったのだ。最高潮に相手のことを好きだった頃、よく流れていた曲だった。稽古場で聴いたし、家でも聴いたし、通学しながら、喫煙所でひとりぼーっとしながら、聴いた。こういう曲のような、Blueのような女にわたしはなれないなと泣きそうになりながら聴いていた。割と、ほんとにわたしのなかにある相手のイメージを曲にするなら、Blueになってしまうかもしれない。そのくらい、わたしのなかではあの人を象徴するような、そして絶対にわたしがなることのできない曲だった。そういうのがあったりなかったりして、今日あの電車の中で、Blueとわたしの「好きだ」という気持ちが何故だかシンクロした、のだと思う。勝手に傷ついた自分が、これ以上可哀想なことにならないよう、防衛するためにわたしはこの一年好きな相手を嫌いになろうと頑張っていたわけだけど、それはそれで問題があったのかもしれない。何故なら、多分まだ好きなんだろうから。

自分の弱い面を守ろうとするために、自分の中にある別のものを犠牲にする意味はあるんだろうか。あったんだろうな。そうしないと結構辛かったんだろうな。多分そうだと思う。一年経ってやっと、「ねえ、でもわたしは好きなんだけど」って呟いてる自分に向き合えたのだなあと思う。で、これはもうこのまま、暫定的にではあるけれども、「死ぬまで多分好きでい続けてしまうけど、それはまあわたしの勝手だよね」ってことでどうにかこうにか生きていこうと、駅前のファミマで汁なし担々麺を買いながら思った。

勝手にしんどい思いを強いられてきた自分のことも、大切な自分のうちの一人だから、やっぱ好きピ!!!付き合ってくんないけど!!!!!みたいなことにはもうならないだろうし、DVDさえ返してもらえたらもう今後二度と会うことはなくてもそれで構わないなと思っている。そもそも恋人どうしだった瞬間すらないわけだし。つら!それはそれとして、そうやって現在進行形でつら!てなる自分と、好きだった自分と、辛かった自分と、好きだなやっぱりと思っている自分、なんとか手を取り合って生きていけたらいいもんだなあ、と、今はそう思っている。明日はどう思ってるかわからないけれど、それもまたわたしなんだから、とか考えながら。相手のことを好きな自分もちゃんと仲間に入れてあげないと、わたし以外にその気持ちを受け止められる人はいないのだから。

Mandrake 『1058』

を、観てきた。お友達が出ていたので。

2018年大して演劇観たわけでもないけど、個人的にはこれで納まってよかったなという作品でした。歴代わたしの好きな作品って残る作品とサクッと観て楽しかったハイおしまい!って作品があるんだけど、これ前者だったので、例によって思い返してたら感想書き残しとこっかなとなったのでそうしました。

話はまあ暗いというか、暗いではないんだよな〜、重い?とも違うんだよな〜。なんだろう、つらい?わからん。きついとか、しんどいとか、そういう感じなんだけど、そういう言葉でまとめてしまえないような内容だった。題材が題材だし。

のだけど、演出が大変ポップでカラフルだったのがとても良かったです。舞台上で展開される身体や台詞や小道具や音や照明が気持ち悪さを保ちながら、それでもギリギリ直視できるところを攻めていく感じ。一番観るのがキツイシーンがあって、それも別時空というか観られない人観たくない人が目を反らせる場所を作っていて、まあ意図的に【逃げ場】として作ったのかどうかは分からないのだけど大変助かった。それから劇中で使用している曲がことごとく歌入りの曲だったのもわたしは好きだった。やかましさ、観づらさ、聴き取りづらさ、すらも演出であるというか。単純に選曲が自分の好みだったというのも大いにありますが。

たぶんこれきっと演出の人何回も言われまくっただろうけど、よくこの題材に手を出したなと思ったし、(いい意味で)よくこういう形に昇華したもんだ、と感動すら覚えた。

あと、これは別にカンパニーに対して「どうかと思いますこういうの!!」というわけではなく個人として感じたことなんだけど。

誰かが辛い思いをしたり、ひどい目にあったり、それで命を奪われることになってしまったり、わたしが生きていて何度もそういうニュースを目にしたし、わたしはそういうニュースたちを知っている。なんつーか、それがニュースとしてわたしをはじめとする誰かの脳に触れた瞬間、被害を受けた人物が「あなた」ではなくて「誰か」だとわかった瞬間にある種の娯楽に転じてしまうことってあると思うのよね。

劇場で『1058』を観ているわたしたちは観客という立場だけど間接的に、もしかしたら直接的にくだんの事件の被害者を消費しているのだなあ。舞台作品という娯楽として。そしてそれって、犯人たちとどう違うのだろう。そりゃまあ違うって言いたいのだけれど。そうして、同じ軸で舞台上で展開されている登場人物たちの受ける痛みや傷やつらさをもまた面白がっているのだ。観客として。などとぼんやり思ったのだった。別にそういうことを主題としている作品ではないと思うんだけど。ただわたしがそう思ったっていうだけ。とはいえきっと、そう信じたいしきっとそういう人なのだと勝手に思うんだけど、きっとこれを作ったMandrakeのお二人や、出演していた俳優さんたちは、そういうことに無自覚的な人間ではないのではないか、と思っている。少なくともわたしのお友達はそうなんだけど。多分ここ無自覚だと観てて単純に相当キツかったんじゃねえかなあ。いやわかんないけど。

最後あの子供だけが存命してるっていう事実もなんつうか、加害者の勝ち逃げじゃないんだけど。不条理っつうか、遣る瀬無さつうか、でもわりとそういうどうしようもなさって現実的なところなのかもしれないななどと思ったりした。はあ。なんか思い出してたらかなしくなってきた。どんどこ人が死んでいく描写、ある意味面白かったけど。ちょっと笑ってしまった。笑い事じゃねえ!

 

それから、痛みの描写がとても好きだった。物理的な、例えば『殴られて痛い』とか、『なんだかセックスしてしまったわたしたちの肉体』みたいな、そういうのも俳優の身体がもつ説得力みたいなところでスッと納得できる感じだった。

精神的にもというか、特に女性たちの、それぞれの立場でもって抱える、どうしようもない、やり場のない、怒りと判別のつかないようなそれ。それが本当に、すごく突き刺さってくるのがマジしんどかった。なんでこうなってんだろ、とか、わたしなにしてんだろ、とか、誰かわたしに触れてほしい、とか、近づかないでほしいとにかく、とか。日々生活してて(自分が直接そうされたわけでなくとも)たくさんある理由のなかで【女性だから】ということが大きいために受ける、痛み、というか。可憐さとしたたかさをみなさん持っていらした気がしていて、余計にその痛みが引き立っていたように思う。

だからマジで、大雑把にいうけど【何考えてるか分からない+男性という性に大きくよるところの脅威】みたいなものが怖くてヤバかった。(語彙力の欠如)

『なんとなく』『そうしてみたかったから』『面白いかと思って』なんだろうか、とか考えながら観てたんだけど、中盤あたりから加速度的に「急に!?えっ怖!!やだやだやめて!!ほんとマジでわかんねえから!!」みたいに思う瞬間が増えていって、とてもスリリングだった。スリリングって相当いい語感の言葉使っちゃったな。なんかもっと背筋に突き立てられるような。観てるこっちのなにかがゾリゾリ削られていくような感じね。

べつにこういうのに性差があるのか?と言われれば無いのかもしれないけど、やっぱり女として生まれてしまったために「あ〜」ってなることって意外とあったりするのでは?とも思うし。逆に男性はこれを観てどう感じたのだろう。ということは気になる。

いやほんと、べつにこういう演劇だったわけではないんだけど!わたしが勝手にそう思っただけなんだけど!

なべてみなさん見せ方が本当にお上手で、キラキラしいエグさ(しかもアクティングエリア超狭いし客席との距離も相当近い)というなかなか体験したことのない劇体験をしました。題材のことを考えるとこういう言葉を使ってしまうのは本当に躊躇われるのだけど、これは一つのフィクション、【作品】なのでそれに対して言いますが。これぞ見世物だなあ、と思ったのであった。感情も肉体も、剥き出しで制御している俳優たちの美しさ。演劇とはこうでなければ。(当社比)

どうもありがとうございました。

ボヘミアン・ラプソディーという映画の好きなところ

普段映画を観て感想をぽつぽつ呟くことはあるのだけど、こうしてまとめて感想を書こうと思うような映画って自分にとってはあまりない。

ただボヘミアン・ラプソディー略してボラプが本当にわたしの心に刺さりまくってしまって、11/12の夜に初めて映画館で観てから毎日Queenの曲を狂ったように聴いているので、そんくらい好きならちゃんと言語化しておこうと思った。

ただそれだけの記事なので映画と違うこと言ってたり思い込みでモノを言ったりします。よろしくね。

 

現時点で劇場で5回鑑賞してるんだけど、なんでこんなに劇場行ってるのかというと、Queenの曲が大好きで(とはいえベストアルバムに収録されてるような曲しか知らないんだけど)、でもわたしフレディが生きてた頃の彼らをリアルタイムで知らないんですよね。フレディが亡くなったとき一歳くらいだったので。記憶ある方が怖いね。

いやね、もちろんスクリーンの中のフレディはフレディその人ではなくラミ・マレックだし、グウィリム・リーだしベン・ハーディーだしジョー・マッツェロなのは百も承知なんですけど。やっぱり動いてる!誰にも怒られないで大音量でQueen聴ける!!というのがすっごく大きいんだよ。だって普通のお家で映画館みたいな音量で音楽聴いたら超迷惑じゃん。そんで、メンバーを演じる俳優たちが本人たちに大変良く似ている、動きなんかもしっかり研究した上で撮影に臨んでるっていう。ライブの映像やPVしか見たことないけど、キラー・クイーンの撮影シーンであわわわ〜〜〜Queenおるやんけ〜〜〜って思ったわけ。だから行けなかったQueenのライブへ足を運ぶようにして、映画館へ通ってしまう。

だから逆にというか、初回の鑑賞では楽曲があまり流れないように感じるシーンなんかが少し退屈だったんだよね。Queen関係ないただの映画として観たならわりと凡作というか、悪くはないけどとびきりよくもないのかな、というのは正直な感想。それは5回観た今もあんまり変わらない。Queenの曲の力と俳優陣の熱演、それだけはマジですごいと思ってる。ただ5回通って曲だけ聴いてるのかというとそんなことはなくて、回を重ねるごとに俳優の演技の素敵さとか、そのシーンでその曲が流れる意味を想像してとか、なんやかやで毎回しっかり楽しんできっちりライブエイドでブチ上がって帰っています。凡作なのかなとは思うけど、わたしはとても好きな映画だなと感じてる。

というわけで以下感想です。

言わずもがなネタバレしまくってるので一応それだけ言っとくね。観てない人は早く劇場へ行ってほしいなと思います。

 

①ライブまでのシーンの描き方

わたしsomebody to loveがめちゃめちゃ好きなんです。そもそも大好きな曲が映画始まって一発目で流れるっていうラッキーな幸せ。いや実際の一発目は20世紀フォックスのファンファーレなんだけど。あのピアノの一音目が聞こえた瞬間涙がドバドバ出た。で、その「僕が愛すべき人をどうか見つけてください」って歌ってる曲をバックに何が起こってるかというとさ〜、大大大見せ場のライブエイドのステージに彼らが上がるまでの流れじゃない。

冒頭のこのシーンではフレディの背中だけにフォーカスしてるんだよ。ああ、フレディ・マーキュリーの物語が今から始まるのね、という感満々で大変期待をもてる幕開けだなと思った。でさ、でさ、ラストにも同じシーンがもう一度出てくるでしょ。でもさ、ラストでは『Queenの四人がステージへ上がる』っていう画で映してるのね。泣いたね。フレディ・マーキュリーだけではきっとここには来られなかったし、ブライアンもロジャーもジョンも、だれが欠けてもダメだったんだよ、ということが、ラストのこのシーンに来るまでにちゃんと描かれてる。(と思う。)

フレディは自分をパフォーマーだと言っていて(フレディ・ファッキン・マーキュリー!)、彼が最高のパフォーマンスをするのにはQueenのメンバーが必要不可欠だということに劇中で気づいている。

『自分が何者か』『自分の所属する場はどこなのか』、きっと人種やセクシャリティや宗教や、日本でぬくぬくと育ってきたわたしには想像の及ばないアイデンティティの問題をフレディは抱えていたのに違いない、と思う。

そういう彼が、Queenという家族に所属して、(ライブエイドに限らないんだろうけど、)この映画のクライマックスであるところのライブエイドという大舞台、『出演しなかったら死ぬまで後悔する』って断言するほどのステージにパフォーマーという確固たるアイデンティティでもって立つということの尊さが本当に、本当に、泣けるよね……。彼が探し求めていた愛すべき対象はパフォーマーとしての彼自身だったのかもしれないし、そういうふうに在るために必要なバンドメイトやメアリーやジムや、そういう彼の周りで彼を支えてくれていたたくさんの人たちだったのだろうね、と、ラストの方のライブ直前シーンを見ながら毎回思う。

なんというか陳腐な言葉になってしまうのをちょっと恥じつつ、やはりこの映画はフレディへの愛で製作されたのだな、などと思うのである。

あと単純に、

"each morning I get up I die a little

can barely stand on my feet."

という歌詞が映される画と被ってて、なんか、ほんと、自分の毎朝と勝手に重ねたりしちゃって泣いたりとかもした。うーん、したっていうか、していますね。

 

②ポール・プレンターという男

どんな映画にもスパイスというものは必要だと思っていて、それがこの映画ではポール・プレンターという役回りなんだよなあと思っている。

アレン・リーチやばない?????やばい。

初回観終えた後に、ポールの名前でググったりしたんだけどあまり情報がなくて、いまだに彼が実際のところどういう人だったのか分からないのだけど、ちょこちょこ見かけたりするのは『こんなもんじゃなかった、もっとクソみたいな人だった』というツイート。マジ?劇中でもだいぶだったけど……???と思いつつ、ご本人のことはいまだに全くわからないのでポールの劇中での描かれ方がとても好きだったという話をします。彼について知ってる人いたら教えてほしい。

わたし最初農場でのレコーディングシーンから出てきた人だと思ってて、最初にジョン・リードの隣にいた人畜無害そうな青年と全く結びつかなかったんだよね。2回目観たときに「あ〜〜!このやろ〜!!」って思ったんだけど。

なんかさ、気づいてよく観てるとさ、もう結構最初の方からフレディへの視線がアレなんだよな。キラー・クイーンの収録シーンでメアリーがフレディたちを見つめてるうしろにポールもいてさ、シーン切り替わる直前にメアリーから焦点がポールに移るじゃん。そのときの視線がさ〜。視線がさ〜!なんというか、自分の担当しているバンドの成功を熱を持って見つめている、というふうに解釈するのが自然なんだろうけど、フレディを見つめているであろうメアリーからのポールっていうのもあって、「あっ、こいつなんかあるな?」感がすごいんだよな。そこでウワッこの俳優好き!と思った。

そんで、love of my lifeを作曲してるフレディに迫るシーンがあるでしょう。もうさ、ポールがタバコ吸いながらフレディを見てる雰囲気がすでに、(あっ……やばい……フレディ逃げて……今すぐに……)みたいな空気を孕んでるんだよね。【一方が勝手に好意を持ってて、関係を迫ろうとしている】っていうの、別にゲイもヘテロも関係なくあることだと思うんだけど、なんかもうその舌なめずり感つうか。ゾワっとする感じ。フレディのlove of my lifeはメアリーだっていうのを知った上で無理やり唇奪った挙句に「僕は君のことを知っているよ、フレディ」って言うじゃん。言うじゃん〜。あれ順番逆だっけ?まあいいや。んでそれもさあ、観客としては「いやお前何もわかってねえから!!!」みたいに思わずにはいられない感じで言うじゃん。でも実際フレディゲイでさ。ある意味ではフレディよりもフレディのことを解ってるというか。こいつの言うこと全部否定してやりたいけど、けど、一理くらいはある……ぐぬぬ……。みたいな。なんかアッパレな嫌な奴役だなと思う。ここ観るたびにそう思う。

で、わたしが一番この映画の中で観てられないシーン。多分ここしんどくて無理って思う人いっぱいいるんじゃないかなって勝手に思ってるんだけど。フレディの家での乱痴気パーティのとこ。もうホントしんどくないですか??メアリーがいないのもしんどいし、フレディがメンバーにあしらわれてるのもしんどいし、我慢できずに帰宅を選ぶメンバーたちもしんどいし、空元気っつーかクスリのテンションなのかな?それで楽しげにしてるフレディもしんどい。なにより心底楽しそうなポールがしんどいんだ。この後の彼って、フレディをメンバーから引き離し、メアリーから引き離し、フレディの金でやりたい放題してほんっとムカつくオブムカつく野郎なんだけど、でもきっとフレディにマジで惚れてた部分もあるんじゃないかなって思うんだよな。フレディがsweetheartって呼んでるんだから、きっと互いに互いじゃないとダメなところもあったと思う。音楽的なところでフレディたちと共有できるわけじゃない。おべっかとはいえポールが最高だと言ったフレディのソロレコーディングではそれを否定されてるし、ロジャーたちからは蛇蝎の如く嫌われてるし(まあ自業自得なんだろうけど)、父親に死んだほうがマシって思われるくらい同性愛差別の強い地域出身で、そもそも愛することってなんだろな、という部分がポールにもきっとあるよね、と思うの。なんだろな。フレディに才能があって、金があったからダメだったのかなとも思うし、フレディに才能も金も無かったらきっとポールは見向きもしてないよな、とも思うし。

そういう関係性の中で、フレディを肩車して、ハイテンションで叫んで、フレディの女であり男でもあるように振舞って、「君たち似てきたね」と言われて、楽しくなかったわけがないんだよ〜。ジョン・リードをクビにさせて、ミュンヘンに移ってからメアリーやマイアミから電話かかってきてさ、ご機嫌で電話切るじゃん。フレディを自分のものにしたって思って嬉しかったんだろうな。最低だな〜!最低だよポール!でも少しわかるような気もしてしまうのだ。Queenという伝説的なバンドを自分の言葉で実質解散みたいな形に追い込んで、きっとその決断を取らせるためにフレディと蜜月を育んだのだろうし、目障りなメアリーの目の届かないところへ逃げ込んで、フレディは自分の言うこと聞いてくれてるわけでしょ。憧れて喉から手が出るくらい欲しかったものが手中にあって嬉しくないわけがないよね。信頼してたジョン・リードに裏切られたと思ってるわけだから、フレディもフレディでポールに依存してたみたいなところあるんじゃないかな……。だってそもそもなんでポールとそうなったの?って言ったら、多分メアリーと別れたからでしょ……。運命の人と別れて過ごさなくちゃいけなくて、自分にはもはや妻もいなけりゃ子がいるわけでもなし、他のメンバーには家族がいて、すぐ近くに自分と同じセクシャリティのしかも自分を好いてる人間がいる。そうなったらまあそりゃ依存するよねえ……。んで、ポールはポールで、すっごく嫌な言い方をするけど、他人に依存して食い物にして、そういうふうにしないと楽しさや幸せを実感できないっていうか。そういう人いるよね。いるね〜〜〜。は〜〜〜なんだろな〜〜〜わっかんねえ〜〜〜わっかんねえんだけどホントしんどいです。

もうさ、序盤からずっとメアリーへの敵意がすごいじゃん。敵意っていうか。俺は知ってるんだぜ感つうか。キラー・クイーンのときも、ライブ見てるときも、ライブ終わった後も、度々メアリーへ投げてる視線に敵意がこもりすぎてる。でも、フレディに関係を切られる直前に結局メアリーが会いに来るじゃん。無理だったねポール。メアリーには勝てなかったね。愛を勝ち取れずに自業自得で破棄される関係性しか築けなかったポール・プレンターという男が悲しくて情けなくて切なくてムカつく。

フレディはさ、メアリーを追って雨の中傘もささずにタクシーに取りすがるでしょう。でもポールはしばらく屋根の下から出てこねえじゃんアイツ。自分の立場がぐらついてるな?って感じ取って初めて雨の中いやいや出てくるんだよ。でも言い訳と保身ばっかりで、背を向けて出て行くフレディを追っかけるわけでもなく、今度はプライベートをテレビに売っちゃうでしょ。小者!!!ものすごく小者!!!あのあときっと、今度は違う男に取り入ってるんだろうな、と容易に想像のつくアレ。

ポールがもしも他人を真に愛することを知っていたなら、この物語のカタルシスは違う形になってたと思うし、スゲ〜むかつくけどほんとに不可欠なキャラクターだなと思うわけです。大変に分かりやすい悪役。こんな描き方していいの?と勝手に心配になるくらいメッチャ悪役。で、それをきっちり演じて見せたアレン・リーチマジパネェと思うわけですよ。ほんと、目線の一つとってもねばっこい。フレディに媚びてる演技とか、全くフレディのこと気にかけてないふるまいとかもすごい「あ、ああ〜わかるわ〜」みたいな感じ。語彙力がなくてごめんなさいね。でもほんと、わたしとしては彼のおかげで辛いシーンを何回鑑賞しても「いや〜アッパレ」つって、そういう次元で観てられたりするんですよね。

 

 

③radio gaga

久々にQueen四人が揃って、ライブエイドに出たいという話になったとき、ブライアンが言うセリフ。

"Where is Madonna?"

この時点でQueenはちょっと落ち目というか、前時代のバンドだよね、みたいな空気があるのは明白なわけで。今で言ったら誰だろう。ちょっと思いつかないけど、今の20代前半の人がもしかしたら浜崎あゆみなんかを見てそう思うのかもしれない。あゆ引き合いに出してごめん。他意はないです。ていうシーンがあって、ライブエイドで演奏するradio gagaですよ……。もう、歌詞が、劇中のQueenの現在をそのまま歌ってるみたいでさあ。これ劇中の話ね。実際どうだったかは知らないよ。知らないけども、ボヘミアン・ラプソディーの時とか、意味をなさない歌詞だとか言われて、でも曲はリスナーのものだって言ってあくまでも歌詞の意味を詳らかにはしないでしょ。それってさ、

"all we hear is radio gaga"

じゃんと思うんですよ〜。時代は必ずしもQueenを求めていなくて、Queenの歌う曲の歌詞に意味なんかないのかもしれなくて、でもさ、

"radio, someone still loves you."

でしょう!?観客は意味がわかんなくたってきちんとQueenのリリックを受け取って、自分のものにしている。ウェンブリーにいる、中継でライブを見ている誰もがsomeoneなんだもん。泣くでしょこんなの。こういうリンクをさせるためにきっとブライアンのあのセリフがあったんだろうけど、それでもやっぱり震えてしまうのだ。観るたび聴くたび、両手を挙げて、一緒に歌いたくなる。ライブエイドのシーンで一番好きなシーンです。いやどこ切り取っても好きなんだけどさ!

 

 

④登場人物魅力的すぎる問題

単純に可愛いというか、素敵なシーンがいっぱいあって幸せというだけなんですけど。いっぱいあるので思いつくだけ箇条書きにする。時系列は気にしないでちょうだい。

・コート褒められた後にメアリーの言う"thank you."

・keep yourself aliveのときに目を剥いてフレディを見てるジョン

・ファーストアルバム(だよね?)のレコーディングの試行錯誤あれこれ

・仕事へ行くために鏡をのぞいてるメアリーにフレディがいう"How beautiful you are."

・"He is the dentist." "dentist."

・↑のあとにフレディのお知らせを受けて各々衝撃を隠せないボラプボーイズ

・ブライアンの"This is BBC.""Where is Madonna?"

お茶目か〜!!

アメリカツアーのお知らせを引っさげてフレディたちの元へやってきたディーキーのニッコニコ顔

・レイの部屋でハバネラかけながらメンバーだけが楽しそうにしてるとこ

・農場で抑えきれずに口をムグムグさせながら作詞してるフレディ

・""NOT the coffee machine!!!""

ボヘミアン・ラプソディーのレコーディングシーン全般的に可愛いがすぎるね

・ラミのタバコの吸い方超うまそう、上映後必ず喫煙所へ行ってしまう。

・レイにマイアミが物申すシーン。音楽好きなのがよくわかる感

・ラジオ局のDJのちょっとゲイっぽい(偏見ではないんだけど文化的なイメージでこう表現してます)喋り。バァヘェミアァン・ラァハプソディ〜!あと乾杯の軽やかなグラスの音。でもメアリーの気持ち考えると辛い。

・フレディの新居でロジャーとかたく抱き合うところ。さみしいよな……。毎回泣きそうになる。

・これはしんどいシーンなんだけど、となりのマンションのメアリーに乾杯をねだるフレディ。話だけ合わせてテンションだだ下がりのメアリー。でもさあ、ここどっちの気持ちもわかるじゃん……。フレディのときもメアリーのときも両方あるじゃない……。しんど……。だよねえ、メアリーだってさフレディのこと大切だけどさ、でもなんだろう、すごく強い言葉を使うと「わたしは都合のいい女だよね?」というところに落ち着いてしまうと思うんだ。あのシーンの二人の関係性では。だってフレディゲイなんだもん。メアリーが付き合ってられないってなる気持ちもわかるし、『性を超えたところにある友情』という概念に(悪く言えば)甘えてしまうフレディの気持ちもすっごいわかるよ……。ここからメンバーとの溝も広くなって行くでしょ……。しんど…………。

・乱痴気パーティでフレディがメンバーの元に行く途中で何か耳打ちされた男子が遠ざかるフレディから目が離せなくなってるとこ。見過ぎ見過ぎと思いつつ、稀代のスーパースターにあんなことされたら腰も抜けるわな。

・ジム・ハットンがちゃんとガチでフレディを怒るところ。よかったねフレディ……怒ってくれる人がいたよ……からの

"I like you."

"I like you too."

likeを使っているところがとても好き。あなたのこと今はよく知らないけれど、でも人として好きだよ、こっちにはあなたに対する好意がちゃんとありますよ、という言葉と演技だなあと思う。

そして「おやすみ……いやおはようか」と言って去るジム。いい男か。いい男だよな〜。

we will rock youとanother one bites the dustの制作シーン毎回毎回クソクソクソテンション上がる。ディーコンかっこよすぎんか?黙ってあのベースのリフ弾き始めるのほんっとうにヤバイ。し、フレディとのやり取りなんかが、ああ本当にこのメンバーで曲作りしてきたんだもんなあ、と感じさせて熱くなる。マイアミの"I do it!"から曲に入るのもすごくカッコ良い。

・another one bites the dustの終わり、一人ピンスポット当たりながら肩で息をしているフレディ。この映画の中ではこの時点でもうすでに病気が迫っているのだな。

・ソロ契約を結んだって告げるシーン。優雅に紅茶飲んでんじゃねえぞポール!と思いながら、ロジャーの熱さとディーキーの冷めの対比が好き……。しんどいけど……。

・咳をしたら血が出て、そっと誰にも見られないようにティッシュを丸めるフレディ。

・"How could you……"

    "How could I……!?"

ただただしんどい……。そのあとちゃんとお祝いを述べられるフレディ、あそこである意味目が覚めたのだなと感じで泣いてしまう。

・under pressureの曲の入り……

・マイアミに連絡を取るフレディ。電話を切る前に「ジム」と彼の名前をちゃんと呼ぶところ。

・久々に集まるQueenの面々。「なんとなく」部屋からフレディを出すブライアン。「よかったら入って」と部屋に招き入れるジョン。なにも説明できないロジャー、話し合いを取りまとめるジョン。Queenにおける彼らの関係性をサッと描いてる気がする。

・病院の廊下で「フレディ・マーキュリー?」と聞くでもなく「エーオ」とだけ声をかける患者の青年。一言だけそれに答えるフレディ。

エイズをメンバーに打ち明ける直前、マイアミとアイコンタクトをとるフレディ。フレディがブチあげるメンバーだけに向けた演説。フレディ・ファッキン・マーキュリー!!!そりゃみんな泣いちゃうよね。

・フレディとジムを前に、会話を切り出すカシュ。友達はいいわね、と戸惑いながらも息子を優しく見つめるママ。父さんの言った通りだよ、というフレディを黙って抱きしめるパパ。分かりやすすぎ〜!と思いつつ毎度泣く。

・ライブエイドのシーン、ウェンブリーの出演者たちが作り上げてる熱気みたいなものが画面からビシビシ伝わってくる感じがしてメッチャあがる。

Queenが舞台に上がる直前の紹介アナウンス。「ご紹介できて光栄です」ってやつ。

・ジムとメアリーの対面。フレディとメアリーがお互いに大切な人を紹介しあえて、そのあとwe are the championでメアリーがジムに寄り添うところ。フレディを間近で愛している二人だからこその空気感。実際の二人の関係性と異なるのかもしれないってよく見かけるけど、このシーン入れてくれたおかげで大号泣である。

・ちゃっかりQueenの出番直前に音量をガッツリあげてるマイアミ。あなたもQueenのファンだものね。そのあとradio gagaを両手上げて歌ってるシーンもすごく好き。

Queenのステージに熱狂する観客のみんな。特にwe are the championで泣いてる白髪頭のおじさんにつられて泣く。エーオ!でフレディが高音ロング出した時の高揚感。観客だけじゃなくてスタッフもみんな沸き立ってるのが本当に楽しい。

・言わずもがなライブエイドのシーンは毎回立ち上がって歌いたくなるくらい素晴らしいと思う。

・エンドロールにdon't stop me nowのPV流すの、俳優とメンバーがどれほど似てたか答えあわせ感あって好き。

 

ざっと思いつくだけでこれくらいある。多分また観たら、ああここも好きだった、いやここも最高だわ、みたいなのがドンドン増えていくんじゃないかな。毎朝通勤しながらQueen聴いて、帰ってツイッターでタグを検索したりして、次はいつ観に行こう、川崎やお台場の劇場がすごいらしいぞ、とワクワクしながら師走を過ごしています。賛否両論あるのは知っているけど、こういう体験、まさに体験だよね。それをくれたこのボヘミアン・ラプソディーには本当に感謝している。史実とは異なるのかもしれないけど、これはブライアンとロジャーがみんなに見せたいと思ったQueenの姿なんだもんな。フレディ・マーキュリーという、もう去ってしまった人に対する愛情で形作られた素敵なファンタジー、おとぎ話、Queenのお話なんだろうな、ということでわたしは納得しています。

去ってしまった人やチームを指して「彼(ら)はまだ生きている」 って言ったりするよね。いやほんとまさにこういうことだよなあ、あの四人で活動していたQueenも、フレディ・マーキュリーも、まだまだ全く死んじゃあいないぞ、としみじみ思う毎日です。

祖母が死ぬ前の夜の話

父方の祖母が亡くなって数年経つのだけれども、未だに亡くなる前夜のことを忘れられなくて軽めに死にたくなったりするのでとりあえず書いてみようと思う。

一人暮らしで、痛いのずっと我慢して、病院に行った時にはもう手遅れだった、癌だった。みんなに心配かけるからってずっと痛いの我慢して、それで癌でしょ。結構カッときたのを覚えてる。なんで言わないんだよって、でもまあ分かるんだよね。そんで困ったみたいな顔でニコニコしてる、わたしのおばあちゃんはそういう人でした。

そこから結構頑張ってくれて、もしかしたらもう癌なんて嘘みたいになくなってて、わたしが風邪引いて熱出して一週間くらい寝込んだ時にうどん作りに来てくれて部屋まで運んでくれたりなんかして、この先あと五年くらい穏やかにいつも通りに生きてくれるんじゃないかなって思ってたんだけどそうはいかなかったね。

煮てくれたうどん食べてわたしが復活したのと入れ替わるくらいのタイミングで体が動かなくなっていった。

おばあちゃんは大抵一階のリビングにいつもいたのね。自室は二階にあって、足腰鍛えなきゃって言いながらいつも自分で登っていってたんだけど、それができなくなって、階段に座って一段よじ登って休んでまたよじ登ってを繰り返さないと上の階に上がれなくなってた。

おばあちゃんちの一階を身内が自営業の店舗として使ってるもんで昼間は常に誰かしら家にいたことと、別の身内に医療従事者がいたおかげで、在宅で最期まで生活していくためのサポート体制が幸いにも整ってたの。それで介護用のベッドを二階の部屋に置いて、みんなで昼夜交代ばんこでお世話しながら亡くなるまでの二ヶ月くらいずっとそこで生活するようになった。

ベッド導入してからはほとんどそこから動けなくて、もうだいぶ食べれる量は少なかったんだけどそれからさらに少なくなり、起きてる時間が短くなり、大好きだった肉も飲み込めなくて、食べられたと思ったらお腹が張っちゃって苦しんで(大腸ガンだった)、時季には早いスイカをちょっとなめて美味しいねってニコニコして、そのうち一番美味しいのが冷たくひやしたお水で、ってなって、亡くなる一週間前くらいからは一人じゃ立ち上がれなくなるくらい衰弱しちゃったの。

それをみているのがとても辛かった。最期まで家に居てくれて、ずっと一緒にいることができたのはすごく嬉しいことだったけど、大好きな人がどんどん弱っていって否応無く死に向かってる姿を見続けるのがとても辛かった。夜になると誰か一人家族がついてるようになんとなくしてて、そんで夜になるとなんかさ、色々考えちゃったりするじゃない。わたしはこの人がわたしにしてくれたことを何一つ返せないまま、逝かせてしまうのだなとか、ずっと死なないで生きててくれてると思ってたなとか、考えたってどうしようもないんだけどそんなことばっかり考えてた。

それで、亡くなる前日の夜、わたしが夜のお当番の日だったから、おばあちゃんち泊まって部屋にずっと一緒に居たんだけど、なんかもうすごい苦しそうだったのよ。そんなに苦しそうにしてることがそれまでなかったってくらい。呼吸するときの音がすごくて、たぶん痰が喉に絡まっちゃってそれで音が立ってたんだと思うんだけど、風の強い日の外みたいな音がするの。で、まぶたを閉じるための筋肉が弱くなっちゃったのか、その辺分からないんだけど、半目みたいな状態になってて、口もポカンとあいていて、なんか、こんなこと思いたくないって思いながら、今まで大好きでずっと一緒にいた人が、突然知らない生き物になってしまったような気がしてしまって、そうしたらもう怖くて怖くてたまらなくなった。

そんで、わたしはバカだったから、家族の誰かに助けを求めるとか、そういうことを考えつかなくて、わたしが当番なんだからわたしがこの夜を乗り切らなきゃいけない、朝になったら父がこっちに来てくれる、それまで我慢しなきゃいけないって思ったんだよ。我慢しなきゃいけないって思っちまったんだよなあ。我慢だよ我慢。そんなこと思いたくなかったっていうか、そういうことを大好きな人に対して思ってしまう自分を発見してしまって吐きそうになった。

辛いのはお前じゃなくてばあちゃんだろって。思うように頑張ったんだけども、どうしても恐怖が拭えなくて、そのうちおばあちゃんの顔も見られなくなっちゃって、同じ部屋にいるだけで震えが止まらなくなってしまって、逃げちゃったんだよな。部屋から逃げて、階段のフチにすわって、現実逃避みたいに友達にライン爆撃して、朝まで震えてた。

部屋から呼吸してる音は聞こえてくるから、ああまだ生きてる大丈夫だ、って思って、確認しに部屋に行きたいんだけど、おばあちゃんの顔を見るのがどうしてもどうしてもできなかった。部屋に向かおうとすると足が震えて呼吸が乱れんの。何があんなに怖かったのか分からないのだけど、今これを打ちながら、思い出してちょっと震えている。死んでいく人の姿を見るのが初めてだったから、それで怖かったのかもしれないなと、今は思うようにしている。

呼吸が苦しくて、でも頼りの孫は自分をほっぽって部屋の外に行ってしまって、そうして自分が死に向かっていて、こんなのは想像でしかなくてもしかしたら意識なんかなかったのかもしれないけども、あの六時間くらいの間のことを思い返すと、今も眠れなくなる。

父が帰ってきて、おばあちゃんの部屋に入るなり、『(医療従事者の親戚)に電話しろ!!痰が詰まって溢れてる!!』って怒鳴って、そのときのもうなんか、自業自得っつーか、わたしがやってしまったことなんだけど、絶望感。それと父がきちんと状況を回すことのできる人間として機能していて自分の役目がなくなったことに対する安心感。それがものすごかった。

結局そのあと母とその医療系の親戚が一時間くらいで来てくれて、わたしは申し訳なさとか情けなさとか、おばあちゃんは勿論なんだけどそれと同等くらいの父に合わす顔のなさとか、色々ないまぜになって、ずっと一階のリビングで項垂れてた。わたし以外の三人がずっとお世話してて、それで、9時ごろになって、お母さんがオムツ替えようとしたときに、おばあちゃんは亡くなった。

亡くなったこと自体はわたしのせいじゃないしそもそも意識はなくなってたはずだよ、人が死ぬってこういうことだからあんまり気にしないで、ってその親戚が慰めてくれたんだけど、なんかもうその夜のことが未だにフッと蘇って、どうしようもなくなるときがあるんだよ。

わたし、おばあちゃんとサヨナラするときには、ちゃんとありがとうって伝えて、大好きだ、またいつか会おうねって伝えようってずっと思ってたけど、そんなこと言えなかった。二階で母親が『おばあちゃん様子がヘン!!』って叫んだとき、すっ飛んでって、「ごめんなさい!」って叫ぶことしかできなかったんだよ。最期に謝罪なんて聞きたくなかったろうな。どうしよう、自分のせいでおばあちゃんが死んでしまう、それしか頭の中になかった。

こんなはずじゃなかったんだよ。そんで、もしかしたら、入院してたなら、こんなことにならなかったんじゃないか、とか最低なことも思ってしまう。痰の吸引ってされる方はすごく辛いって聞くけど、少なくとも自分がずっと可愛がってきた孫が、自分が喉に痰をつまらせてるのを見捨ててどっか行っちまうなんてこと体験させなくて済んだんじゃねえかな(そりゃそうだ)とか思っちゃうのよ。

そういうわけで、昨日の夜もハッと思い出して眠れなくなったので、文章に起こして懺悔にしてみようと思った。もうすぐ三回忌なんだ。ホント合わせる顔がねえ。でもおばあちゃんは、バカだね〜そんなわけないじゃん〜、ってケラケラ笑ってくれるような人だった。分かんないけどね、もしかしたらメッチャ恨まれてるかもしれない。そう思う方が楽なんだな。でもあの人はそういう人じゃなかった。どこまでも自分本位だけれど、ちゃんと会って謝れる機会がもうないってとてもしんどい。わたしはおそらく一生死ぬまで、この夜の記憶を引きずって生きていくんだと思う。自分との折り合いがつかない。そしてもうこれを家族の誰に言うこともできない。おばあちゃんの死に対して、みんながみんな思うところがあるわけだから。母なんかは、自分が余計なことをしたせいでと思っているふしがある。そんなこと絶対ないのに、とわたしは思うし、わたしに対して母も同じように思っているかもしれない。いや思ってないかも。どっちにしろ、自分でどうにかしないといけないんだよなあ。

身勝手だなと思う話

全然知らない人が書いてた認知症の祖母についてのブログを読んで、書いた人がどうこうという話でなく自分の記憶とかやってることとか、そういうのでしんどくなってる。

うちにも認知症の祖母がいる。母方の祖母。秋田でじいさんと、叔父と三人で暮らしてたんだけれど、じいさんは心筋梗塞で亡くなって、叔父はその一年後だか二年後に酔って首をくくって死んでしまった。たいそう金がなかったみたいで幾度かうちの母に無心の電話を寄越していたらしい。

で、だれも頼れる人がいなくて、叔父の葬式が終わった直後に、母が嫌がるばあさんを引っ張って東京に帰ってきた。ほんとは一人で生活なんてできないって、ばあさんも呆けてるなりにわかってたみたいだけど。そこから二年、もうすぐ三年、週に四回デイケア?というの?昼間預かってくれる施設に行ってる。

わたしも兄弟も仕事したり学校行ったりしてるから、実質面倒見てるのは母であって、わたしたちがばあさんの世話を見るとか、そんなの全くしてない。大して関わり合いがない。一緒に生活してるのに。それどころか生活とか衛生観念とかが違いすぎて、あと呆けてるからほんと三分に一回同じ話したりするじゃん、それでだんだん疎ましく思うようになってしまったのね。

でさ、自分の幼少時を振り返るとこう、秋田と東京だからね、そんなしょっちゅう会ってたわけじゃないのね、盆暮れ正月に一週間くらい遊びに行くみたいな感じ。で、遊びに行けばやっぱり可愛がってくれるわけ。スゲエ甘かったと思うし、わたしも秋田で暮らしてる親戚の人々が好きだった。母にとってはどうだったか知らないけど、わたしたちにとってはいいおばあちゃんだったと思う。記憶が美化されてるのもあるかもしれないけど、わたしは昔のばあさんのこと、とても大好きだった。

今はさ、それがさ。何度も同じ話するからとか、外から帰ったりトイレ済ませたタイミングとかで手を洗わない(何度教えてもダメだった)とか、耳が遠くて私たちの言ってることが聞き取れなくて、それでこっちが怒鳴るように話すと萎縮して泣いちゃうとか、そんな些細なことで、些細なことなんだよ、だってわたしがメインで面倒見てるわけじゃないからね、そういうことで疎ましく思ってしまって、しんどくなるわけ。勝手に。

この人が孫たるわたしに注いだ愛情とか、まあそういうようなものを、面倒くさいからで無視して適当にかわして全部母親に面倒見させてるっていうさ、あーもうしんど。

じゃあちゃんと話して相手になって一緒にテレビとか見ればいいじゃん、と思うんだけどそうもいかねえのな、自分勝手なんだよな結局。

そんなので毎日ぼんやりとしんどいなあって思っている。そんで、ばあさんが死んだら、また身勝手に苦しむんだろうな〜って。どうしたらいいんだろうな。